Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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【1】

駒沢




【生存とテクノロジーを巡る覚書】
2005.3.27-(不定期更新)
 以下に、以前この場で公開した一連の発話文(以下では「テーマ文」とする)を示す。

テーマ文1.<これからは、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになるかもしれない。どういうことかと言うと、もしこれまでのように何もせずにそのまま生まれてきたとしたら、成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができるということだ>

テーマ文2.<さっき言ったことをさらに進めて言うとこうなると思う。これからは、子どもが生まれてくる前に遺伝子を変えて、何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康だったり、背が高かったりする子どもを産むことも技術的にはできるようになるということだ。本当にそうなるかどうかは分からないが。すると、カップルの希望に応じた子どもを作るといったSFのような話も夢ではなくなるかもしれない>

テーマ文3.<もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある。個人個人で違う遺伝子を検査したり診断したりすることによって、これから生まれてくる自分の子どもに、さっき言ったような何か深刻な問題が見つかったとしても、産みたいと思ったこどもだけを産むことができるようになるということだ。遺伝的な問題は、ある特定のガンになりやすいとか、アルコール依存症になりやすいとか、さらには攻撃的な性格になりやすいとか色々なことが考えられるようだ。ともかく、治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ないと思う> 

以後、これらテーマ文のそれぞれを巡る問題提起を行っていきたい。ただし、今回の「生存とテクノロジーを巡る覚書」は、原則としてごく簡潔な問題提起にとどまり、問題提起に対する分析的・総合的論述はまた別の機会に行うことになる。これら問題提起は、上記テーマ文に対する応答文を貴重な素材としたものである。それら応答文は、これも以前ここで公開した以下の質問フォームに従って実際に回答されたものである。従って、問題提起は、それら応答文から引き出されたいわば「メタ応答文」である。

*質問フォーム:
下記のそれぞれの<a>欄の発話文[上記のテーマ文]を読んで、最初に頭に浮かんだ言葉を<b>欄に記述して下さい。記入の際には、他の人と相談せずに自分だけで記入して下さい。どのように書けば正解ということはありません。また、制限時間はありません。訂正は、なるべく2本線で行って下さい。
なお、この「生存とテクノロジーを巡る覚書」の更新は不定期になる。かなりの時間を隔てた更新になるかもしれない。おそらく、その可能性が高い。

2005.3.27-28記述分.
問題提起1.テーマ文1を巡って:part.(1)
「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること(以下「遺伝子改造」とする)はしてはならない」という主張があるとしよう。もし、その根拠が次のようなものであったら、私たちはそれをどのように考えたらいいのか。すなわち、「私にとって遺伝子改造が許されないと思うのは、それが、運用上、難病の予防という目的に限定され得ないと推測されるからだ」というものである。そこで、以下のような問題提起がされ得る。この主張は、半ば無意識にではあれ、難病の予防という目的に関しては、遺伝子改造あるいは「生命の選別」を肯定していると言えるだろうか。
また、「運用上」という表現で具体的にはどのようなことを想定しているのか。たとえ難病予防という目的に限定されたものであったとしても、運用上その遺伝子改造という操作が何らかの「事故」に遭遇する可能性をゼロにはできないということなのか。
さらに、「運用上、難病予防という目的に限定され得ない場合」として想定されているのが、次のようなケースであるとしよう。すなわち、遺伝子改造が管理者による許認可制であった場合である。その場合には、たとえその遺伝子改造が難病予防という目的に限定されたものであったとしても、管理者の意思の恣意性によって、難病予防という目的からの逸脱が生じてしまうかもしれない。少なくても、その可能性をゼロにはできない。このことが、生まれてくる前の子どもの遺伝子改造という操作自体が許されない理由とされる。
 この主張は「生命の選別」を肯定していると言えるだろうか、それとも言えないだろうか。それとも肯定否定を決定不可能であろうか。


*「生存とテクノロジーを巡る覚書2」[2005.3.29-30.記述分]
問題提起2.テーマ文2を巡って:part.(1)
1.「子どもは、親またはカップルの希望に応じて存在するものではない」という主張を想定しよう。この主張は、「子どもは、親またはカップルの希望に応じてこの世界へと存在させられるものではない」と言い換えられる。あるいは、「子どもは、親またはカップルの希望に応じた生存の様式を持つように予定されてこの世界へと存在させられてはならない」と言い換えられる。この場合、子どもは、まだこの世界へと生まれてきていないと想定されている。また、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という先の文脈のもとでは、上記の事態は、親またはカップルは、遺伝子を変えるという手段を用いて、自分たちの自由な選択と希望に応じた子どもを作る意図を持っているということになるだろう。
冒頭の「子どもは、親の希望に応じて存在するものではない」という主張が以上のように解されるとき、この主張がさらに以下のような含意を持つと想定しよう。すなわち、
(1)この場合の子どもは、たとえ生まれてくる前であっても、親とは別の存在、あるいは一個の別人格を持つ存在である。
すなわち、ここで親とは別の(または他の誰とも)別の一個の独立した人格を承認されるのは、受精卵や胚細胞、さらには単なる母胎血中細胞の現存を通して、私たちによってこれから生まれてくると想像されている何かである。それは、「生まれてくる前の子ども」と呼ばれる。また、その未来における存在が抹消されてはならないのだから、「これから生まれてくる子ども」と呼ばれる。
(2)「そうである以上、これから生まれてくる子どもの、言い換えれば、親またはカップルとは別人格を持つ存在の遺伝子を勝手に変えることは許されない」。
私たちは、こうした主張、あるいは「そうである以上」という言葉をどのように考えたらいいのか。果たして、こうした主張へと接近するための最適な道筋というものはあるのか。また、この主張は、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」に対する批判的論拠となるのか、それともならないのか。もし論拠になるのだとすれば、結局それはどのような論拠なのか。
2.次に、1の主張をする者が、次のようにも主張すると想定しよう。すなわち、
個々人が、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」を肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を誤った価値観として否定することはできない。
このような論の前提を認める者が、先の「子どもは、親の希望に応じて存在するものではない」という主張を、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてはならない」という主張への批判的論拠とすることができるのか。あるいは、1と2を同時に主張することは論理的整合性を欠くのか。
そもそも、1の段階で、個人の価値観が「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」に肯定的であった場合を想定した上での批判の論拠として、「子どもという一個の別人格を持つ存在」をどこまで自覚的に位置づけているのか。この自覚のレベルの判断は、こうした主張をする者へとさらに問いかけていかない限り、実は非常に難しいのではないか。
3.さらに、2を主張する者が、それでも「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」への違和感を抱きながら、次のように述べると想定しよう。すなわち、
私たちは、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」に関する個々人の価値観自体を否定することはできないにしても、もっと健康だったり、背が高かったりすることが、遺伝子を変えてまで手に入れなければならないものなのか疑問である。
ここには、個々人の価値観として捉えられた「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」への肯定あるいは否定という両極の間で揺れ動く(半ば)無意識の葛藤があるのではないか。もしそうだとすれば、この葛藤は、我々の生存にとってどこまで普遍的な、または偏在的な(いつどこにでも存在する)ものなのか。

*「生存とテクノロジーを巡る覚書.3」[2005.4.1&4.9.記述分]
先に、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」への肯定と否定の間で揺れ動くなかば無意識の葛藤を指摘した。ここでは、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」は「個々人の価値観」として捉えられていた。この葛藤は、個々人において多様な言葉にもたらされるだろう。と同時に、それら多様な言葉を構成する何らかの共通の核も想定され得る。
ところで、この葛藤には、遺伝子改造が「個々人の価値観」として捉えられていることから生まれてくるという要素もある。すなわち、私たちにとって、「これは個人の価値観による自由な選択である」という壁を超えようとする意欲はそもそも生まれにくい。
また、個々人の価値観は、それら個々人が遭遇する多様な経験との関わりで形成されると考えられるだろう。例えば、ある個人が、他の個人またはカップルから、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話を聞いたと想定しよう。この場合、その個人は、話を聞いた相手の価値観を、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話から類推することになるだろう。
言い換えれば、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話を聞いて、そのような経験をした「個人の価値観」を類推するのである。
その経験を、より積極的に、その個人またはカップルの選択という行為として捉えることができる。すなわち、その経験を通じて、その個人またはカップルの選択という行為が生じたということである。
また、もしその中絶という経験または行為が、その個人またはカップルにとって初めて遭遇するものだとすれば、その経験または行為によって、その個人またはカップルの「価値観」が形成されたのだと考えることもできる。
つまりこの場合、選択という行為を導く「価値観」があらかじめ存在していたのではなく、まさにこの経験または行為を通じて形成されたと考えられる。このことを言い換えれば、次のようになるだろう。
すなわち、経験と行為の成立過程を、個人またはカップルが再帰的に(反省的に)捉えたときに、その個人またはカップルにとって「自分自身の、または私たちの価値観」が立ち現れてくるということである。
さて、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という経験を、個人の価値観を表現する選択行為として捉えた上で、その価値観をさらに対象化してみたい。
私たちがこの価値観を対象化する場合、この価値観は、上記の個人またはカップル以外の個人にとっても理解可能なものとして、あるいは個々人の多様な言葉を通じて「何らかの共通の核」を持ったものとして捉えられている。
すなわち、このとき私たちは、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という経験または行為を、我がことのように想像することで、そのような場合にこの私が抱くかもしれない、または抱くに違いない考えはこのようなものであろう、と想定することができる。
こうした想定を「何らかの共通の核」としたときに現れてくる考え方の枠組みが、一般的なものとして捉えられた「個人の価値観」である。この価値観によれば、例えば、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば、中絶を否定することはできない」ということになる。
ところが、こうして辿り着いた一般的な「価値観」は、直ちにその限界を露呈することになる。共通理解が可能な価値観として捉えられたかに見えたものは、再び個々人の多様性を前にして、あえなくその無力な姿をさらしてしまうのである。
「遺伝子異常」を持った子どもを中絶することは、実質的に「生命の選別」に等しいとしても、中絶をやむを得ないとするこの価値観を持つ者においてそのことへの認識があるのか無いのかは明らかではない。私たちが、「この価値観は、生命の選別を肯定する優生主義的なものである」と言えるかといえば、必ずしもそうは言えないのではないか。
と言うのも、あくまで個々人の多様性を示す一例ではあるが、次のような想定が可能である。ある個人が、他の個人とのコミュニケーションにおいて、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば、中絶を否定することはできない」と発言するとしよう。そしてさらに、次のようにも発言するとしよう。
すなわち、「遺伝子異常の子どもを持つ親の話を聞いたこともあるが、いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」という発言である。
では、これら両者の発言をする個人は、「生命の選別」というテーマに関わるどのような「価値観」を持っているのか。あるいは、これら両者の発言をする個人が、「生命の選別」というテーマに関わる何らかの「価値観」を持っていると言えるのか。

*「生存とテクノロジーを巡る覚書.4」[2005.4.11&4.12.記述分]
先に、ある個人が、他者とのコミュニケーションにおいて、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば、中絶を否定することはできない」と発言する一方で、「遺伝子異常の子どもを持つ親の話を聞いたこともあるが、いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」という発言をするケースを想定した。おそらくこの個人は、中絶をした他者の話と、中絶をしなかった他者の話の両方を聞いたことがあるのだろう。だが、この個人が、では自分ならどう考えるのか、どう行動するのかを自分自身に問いかけたのかどうかはわからない。また、「いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」という言葉が、どこまで他者によって語られたものなのか、あるいはどこまで他者の思いを汲み取ったものなのかもわからない。
私たちにとって、この個人が、「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもは、むしろ生まれてこない方が望ましい」という「生命の選別」に関わるどのような「価値観」を持っているのか、またそもそも何らかの価値観を持っているのか、という問いに答えることは容易ではない。むしろ、ここでは、「個人の価値観」を特定することの困難さであり、一般に「ある個人がある価値観を持っている」と誰かが誰かに関して判断することの困難さが浮上する。もちろん、このことは、他者に関してのみならず、この私が私自身に関して、「ある価値観を持っている」と判断することの困難さをも示している。
この困難さがあらわになったのは、私が「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」というテーマについて問いかけることを通じてであった。よって、さらに踏み込んで「こうしたテーマに関する個人の(あるいは私自身の)価値観とはどのようなものなのか」と問いかけることによって、さらに決定困難な状況が生じてくるだろう。私自身は、実際、幾分かはそうした状況を現に経験している。
さて、先の個人が、自らに問いかけられることを通じて、生命の選別というテーマは本来深刻なテーマであることを意識し始めたと想定しよう。私たちは、このようなテーマの深刻さは、始めから意識されているのが当然だと考えてしまうかもしれない。だが、そうした保証は全くないし、もし当然だと考えるなら、それは事実に反しているだろう。
ここでさらに、先の個人が次のような発言をすると想定する。すなわち、「実際にそうした立場になってみないことには安易に発言できないが、深刻な問題についての基準は、明確にしておかないと、ささいな事で出産しない親が増加するような気はする」という発言である。ここでは、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてよいのかどうか」や、「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもの出生を予防してよいのかどうか」といった「深刻な問題」に関して判断することの困難さがかなり意識されている。また、現在の自分は、何らかの「明確な基準」がなければ、そうした問題に関して判断できないと思われているのかもしれない。しかし、少なくてもこの段階では、こうした基準の内容についてさらに考えてみようという自発性は見られない。その意味で、こうした問題に関する自分自身の判断を、外部から与えられた判断基準に委ねてしまうということにもつながり得る。
それでは、明確な基準なしには「ささいな事で出産しない親が増加するような気はする」とは、一体どのような意味なのか。もしここで、明確な基準が何らかの歯止めまたは制限として機能すべきであると考えられているのなら、やはりこの基準は個々人の選択にとって外部から与えられるものとして想定されている。だとすると、明確な基準さえ確立されれば、その基準の許す枠内において出生前の選別を認めてもいいのかどうか、言い換えれば、その基準は選別をある範囲内において認めるものなのかという問題に関する判断は、ここでは保留されている。
この判断が保留されている限り、またこうした基準の内実をさらに思考していくことが回避されている限り、想定された個人の「価値観」を特定することはできない。すなわち、この個人が何らかの「価値観」を持っているとは言えない。また、「生命の選別」というテーマを巡る問題に直面した場合、この個人にとって、ある行為を選択することは非常に困難なものとなるだろう。
もちろん、以上において、想定された個人に関して述べられたことの全ては、この私自身への、そしてこの文章の読者への鋭い問いかけにもなる。

*「生存とテクノロジーを巡る覚書.5」[2005.4.19&4.20.記述分]
 一人の人間が、この世に生を受けた以上、健康で暮らして欲しいといった、一見素朴で誰にもありがちな、その意味でありふれたことを語った(書いた)としても、その言葉が置かれる文脈は、人により様々に異なっている。もちろん、この文脈は、ある一つの文や発話とその前後の文や発話との関係から問われ得るし、またこうした文や発話がそこに置かれる他者とのコミュニケーション状況からも問われ得る。ここでは、複数の文の前後関係から考えてみたい。この場合、比較的単純な文脈として、ある文とその文に引き続くいくつかの文との関係を考える。
例えば、ある個人が、「覚書」の冒頭に示したテーマ文1を読んで、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う」と記述したとしよう。さらに続けて、「医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」と記述したとする。これら二つの文を合わせて考える上で、私たちが想定できる文脈はどのようなものだろうか。言い換えれば、これら二つの文が位置する文脈はどのようなものなのか。さらには、これら二つの文が位置する文脈に、冒頭のテーマ文はどのような関係を持っているのか。この最後の問いは、冒頭のテーマ文に対して、これら二つの文が位置する文脈を形成する力を想定している。
前者の文だけを見ると、先に述べた一見素朴で誰にもありがちな、ありふれた言葉に思える。だが、これら二つの文のまとまりをその相互関係に着目して見ると、ある複雑さが生じてくる。既述のように、冒頭に示したテーマ文1が、これら二つの文が位置する文脈を形成する力を持つと想定しよう。すると、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もある」までの記述では、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えるという「医学の進歩」によって、それなしにはあり得なかったはずの健康な生が可能になるという状況が言及されていると言える。こうした状況は、「医学の進歩」によって生じた「喜びや希望」である。すなわち、「医学の進歩は喜びや希望もある」。
もちろん、ここで「医学の進歩」の事例として遺伝子改造が想定されていると直ちに断定することはできない。だが、テーマ文1を受けた「医学の進歩は喜びや希望もある」という記述に引き続いて、「そればかりではないのではとも思う」という記述がなされている点に注目するなら、そうした可能性は高い。
だとすれば、先の二つの記述、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う」と「医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」は、以下のような文脈関係にあると言える。すなわち、他者の(または自分の)子どもに関して、場合によっては遺伝子改造を行うことも想定した上で「健康で暮らしてほしいと思う」一方で、そのような医学の進歩によって、必ずしも喜びや希望があるとは言えない生がもたらされる可能性も考えられるということである。
もっとも、二つの記述の関係を巡る以上の解釈は、これら記述から想定され得る以上の意識化のレベルを読み込んでいると言えるだろう。それはこういうことである。すなわち、先の二つの記述を行った個人は、上記の解釈に見られるような意識化のレベルに達してはいなかった。むしろ、より漠然とした意識レベルにあったのではないかということである。とはいえ、上記の解釈より無意識的であったとしても、この解釈の射程内にあったと判断できる。
また、上記解釈の意識化のレベルにあったと仮定しても、遺伝子改造それ自体の持つ意味については意識化されてはいないと言える。言い換えれば、この個人が上記解釈の意識化のレベルに達していようといまいと、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述から可能な解釈の射程距離は、遺伝子改造それ自体が持つ生命の選別というテーマには届いていないと考えられる。この個人が、遺伝子改造を含む医学の進歩は喜びや希望をもたらすかもしれないが「そればかりではない」という認識に留まっている限りは。
 さて、先の個人が、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」に続けて、さらに「延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか。つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないかと思う」という記述を行ったと想定しよう。ここで、「延命方法により……ならないのではないか」は、「延命方法の如何によっては、個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならないのではないか」と読める。だが、このことは、次の「つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないかと思う」という記述とどのような文脈関係にあるのか。あるいは、これら両者をつないでいる「つまり」という言葉は、どのように機能しているのか。
ここで考えられている「延命」が、高度な医学的介入によるものかどうかは判然としない。一般に、現代医学においては、「延命」と「高度な医学的介入」はほとんど同義であるはずだが、このことが認識されているのかも判然としない。また、これら両者が必ずしも同義ではない可能性についてあらためて考察されているわけでもない。ここでは、個人の生命の尊厳を無視しない延命(医学的介入)方法と無視する延命(医学的介入)とが区別されているように見える。だが、その基準は具体的にどのようなものなのか、明確に読み取ることはできない。とりわけここで言及されているように見える「個人の生命の尊厳を無視しない延命(医学的介入)方法」が具体的にどのようなものなのか、明確に読み取ることはできない。従って、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述と、「延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか」という記述の両者が、ある一定の文脈を形成することは困難であると言える。
さらに、もしここで、高度な医学的介入という意味で延命を考えるなら、「つまり」という言葉によって、そうした延命を、「ひとつの生に対して純粋に受けること」とどのように関係付けることができるのか。高度な医学的介入が、同時に「純粋に受けること」でもあるというどのような状況が想定可能だろうか。そもそも、「ひとつの生に対して純粋に受けること」とは、どのようなことなのか。それは、「ひとつの生の純粋な受容」と言い換えられ得るのか。もしそうだとしても、「ひとつの生の純粋な受容」とは、一体どのようなことなのか。少なくてもここでの記述から、これらの問いに答えることは困難である。
この「つまり」という言葉は、それ自身の前後の文が位置する文脈を決定する力を持たない。むしろ、この言葉の前後には、ある一定の文脈を形成することの困難な記述が位置している。だとすれば、この言葉は、これら接続困難な記述同士の間に存在する、この記述を行った個人の経験を表現している。そこに表現されていのは、何らかの判断へと至る道を見失った、揺れ動く個の生存の経験である。

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